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仙台地方裁判所 平成5年(ワ)1723号 判決

原告

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

加藤文也

長谷川壽一

安原幸彦

被告

労働福祉事業団

右代表者理事長

谷口隆志

被告

乙山一郎

右両名訴訟代理人弁護士

蔵持和郎

主文

一  被告らは、原告に対し、各自金一億二九九七万〇九二四円及び内金一億一七九七万〇九二四円に対する平成六年一月一三日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告らの連帯負担とする。

三  この判決は、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  主文第一及び第三項と同旨

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

被告労働福祉事業団(以下「被告事業団」という。)は、仙台市青葉区〈番地略〉で労働福祉事業団東北労災病院(以下「被告病院」という。)を経営する法人であり、被告乙山一郎(以下「被告乙山」という。)は、副院長兼外科部長として被告病院に勤務する医師である。

2  被告乙山を含む被告病院の医師ら(以下「被告医師ら」という。)による診療行為

原告は、胃の不調を訴え、平成四年六月二九日に被告病院に入院し、胃悪性リンパ腫と診断され、同年七月一四日に被告乙山を主治医として胃及び脾臓の全摘手術(以下「本件手術」という。)を受け、その後同年八月二五日に東北大学医学部附属病院(以下「大学病院」という。)に転院するまでの間、被告病院において被告乙山により術後の治療を受けた。

被告医師らは、本件手術により十分な栄養を経口摂取できない原告に対し、同年七月一五日から同年八月一九日までの間、糖質輸液又は高カロリー輸液による栄養補給を行ったが、その際、ビタミンB1を含むビタミン剤を一切投与しなかった(以下「本件治療行為」という。)。

3  ウェルニッケ脳症の発症

原告は、被告病院において、目の複視、耳の異常、意識障害、錯乱等の症状を呈し、ビタミンB1欠乏によるウェルニッケ脳症を発症した。

4  被告医師らの義務違反又は過失の評価根拠事実

(一) ウェルニッケ脳症を予見し、その発症を防止すべき義務違反

(1) ビタミンは代謝に不可欠な微量活性物質であり、各種のビタミンは相互に他のビタミンの作用を肩代わりして補うことはできず、しかもビタミンB1をはじめビタミンの大部分は生体内で合成されないから、過不足が生じた場合にはそれぞれのビタミンに特有の欠乏症や過剰症が出現する。

したがって、医師は、手術後に経口で栄養を摂取できず、輸液によって栄養を補給しなければならない患者に対しては、ビタミンB1をはじめとするビタミン剤を適性量投与して、常にビタミンの過剰や欠乏に注意を払い、術後の栄養管理を行う義務がある。輸液によって補給する栄養量が豊富になればなるほどビタミンの消費量は増えるから、ビタミンの欠乏に対する注意はとりわけ必要となる。

(2) 本件当時の平成四年六月までには、ビタミンB1を添加することなく糖質輸液又は高カロリー輸液を施行することによってウェルニッケ脳症を発症する危険があること及び糖質輸液又は高カロリー輸液の施行による合併症あるいは副作用として起こりうるウェルニッケ脳症を予防するためにビタミンB1を添加すべきことが、医学的知見として確立していた。

そして、人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する医師は、その業務の性質に照らし、実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるのであって、右の義務を果すためには、絶えず研さんし、新しい治療法についてもその知識を得る努力をする義務を負っている。

しかも被告医師らは、平成四年三月以前は、高カロリー輸液を投与するにあたりビタミン剤を添加することを必須としていたのであるから、その後、ビタミン剤を一切添加しないで高カロリー輸液を行うように治療方針を変更するにあたっては、事前に、合併症や副作用の有無などについて医学文献等あらゆる手段を駆使して、当時の最先端に及ぶ範囲のものまで十分に調査、検討した上で、その適否を判断する義務がある。

そして、右研さん義務ないし調査義務を尽くしていれば、被告医師らは、原告のように胃悪性リンパ腫により胃の全摘手術を受けた後で低栄養状態にあり、ビタミンB1欠乏状態にあると推測される患者に対して、ビタミンB1を含まない高カロリー輸液や大量の糖質輸液を投与すればビタミンB1が欠乏し、ビタミンB1欠乏症の一つであるウェルニッケ脳症を発症する危険があることを十分に予見し得たはずである。

(3) しかるに、被告医師らは、前記(1)及び(2)の義務を怠り、原告が本件手術直後で栄養を経口摂取できず、ビタミン類が欠乏する状態にあったにもかかわらず、ビタミン欠乏症の発症とりわけビタミンB1の欠乏によるウェルニッケ脳症の発症を予見することなく、原告に対し、平成四年七月一五日から同月一七日までは一日当たり一二五六キロカロリーの糖質輸液を、同月一八日から同年八月二日までは一日当たり一四〇〇から一六〇〇キロカロリーの高カロリー輸液を、同月三日から同月一九日までは一日当たり六〇〇から一〇〇〇キロカロリーの糖質輸液を、いずれもビタミンB1をはじめとするビタミン剤を一切添加することなく漫然と投与した。

(二) ウェルニッケ脳症に対する治療懈怠

ビタミン剤を一切添加しないで高カロリー輸液又は糖質輸液を施行する場合には、適宜、血中ビタミン濃度、脳波の異常、血中ピルビン酸の異常高値の有無についての検査を行う等、絶えずビタミンとりわけビタミンB1の欠乏によるウェルニッケ脳症と代謝性アシドーシスの発現に注意を払う義務があり、ビタミンB1欠乏症が疑われる場合には直ちに大量のビタミンB1の投与を開始し、症状の悪化を防ぎ改善を図る義務がある。

原告は、平成四年八月一〇日ころから物を見る時に焦点が定まらず、複視を訴える等の眼球運動障害が現われ、同月一二日にはトイレに行くのに人の肩を借りないと歩行が困難となる等の歩行障害が現われ、同月一八日には意識障害と健忘が現われ、同月二一日には一時的な錯乱状態に陥った。同月一七日のMRI検査では、第三脳室に接する両側の視床にT2WI上高信号が認められ、中脳水道周囲にも高信号化が観察された。これらの症状とMRI検査の結果は、いずれもビタミンB1欠乏によるウェルニッケ脳症の基本的兆候に該当する。

してみれば、被告医師らは、少なくとも同月一〇日の時点で、原告がビタミンB1欠乏状態にあることを疑い、直ちにビタミンB1を大量に投与することによって、症状の悪化を防止し、改善を図りえたにもかかわらず、原告の症状がビタミンB1欠乏によることを看過し、適切な検査を行うこともビタミンB1の大量投与を行うこともないまま放置したことによって、その治療時期を逸した。

5  因果関係

被告医師らは前記4(一)または(二)の過失に基づく本件治療行為によって、原告をビタミンB1欠乏に陥れ、記銘力に重大な支障を来す意識障害、眼球運動麻痺、歩行運動失調等の症状を伴うウェルニッケ脳症を発症させ、家族の援助なしには生活できないような状態に至らしめた。

6  被告らの責任

(一) 被告事業団は、原告との間で結んだ診療契約(以下「本件診療契約」という。)に基づき、履行補助者である被告医師らによる本件治療行為につき、不完全履行として債務不履行に基づく損害賠償責任を負う。

(二) 被告乙山は、被告医師らの一人として行った本件治療行為について、不法行為に基づく損害賠償責任を負う。

(三) 被告事業団は、被告医師らが被告事業団の事業の執行として行った本件治療行為について、使用者として、民法七一五条に基づく損害賠償責任を負う。

7  損害

(一) 逸失利益

金七九〇三万三六六六円

原告はウェルニッケ脳症の後遺症として、直近の記憶を保持できず、自分が今どのような状態にあるか分からなくなってしまうという逆行性記憶喪失による失見当識の状態に置かれている。労働は知識や経験が蓄積されることによって初めて可能となり、最近の出来事の記憶が保持されないと継続的、あるいは反復的な判断力を必要とする作業は不可能である。原告はこの後遺症によって就労することが不可能となり、これは後遺障害別等級表の三級三号に該当し、労働能力喪失率は一〇〇パーセントである。

原告の本件手術前の年収は金四三六万六六一四円であるが、原告は生涯にわたって労働能力を喪失したものであって、生涯にわたって得たであろう収入は賃金センサスによって認定されるべきであるところ、平成二年度の賃金センサスによると、産業計・企業規模計・男子労働者・学歴計の平均年収額は、金五〇六万八六〇〇円である。

原告は本訴提起時三六歳であるから、就労可能年数は三一年である。よって、これを前提にライプニッツ方式により中間利息を控除すると、原告の逸失利益は次のとおり金七九〇三万三六六六円となる。

5,068,600×15.5928=79,033,666

(二) 付添介護費用

金一八九三万七二五八円

原告には、前述の逆行性記憶喪失による失見当識の障害に加えて眼球運動麻痺及び歩行運動失調の障害があり、妻である甲野春子による二四時間の介護が必要である。

このような介護は、通常の夫婦としての扶助の域を遙かに超えるものであり、一日につき全介助の二分の一の金三〇〇〇円を付添介護費用を認めるのが相当である。

これを前提にライプニッツ方式により原告の年齢の平均余命四一年に相当する中間利息を控除すると、その金額は次のとおりとなる。

3,000×365×17.2943=18,937,258

(三) 慰謝料 金二〇〇〇万円

原告が被った被害は深刻で、原告が抱く不安、恐怖、孤独感は図り知れない。一方、被告らは、本件の原因はビタミン剤に対する健康保険の取り扱いにあり、いわば不可抗力によるものであったとして争い、患者をないがしろにした態度を取り続けていて、自らの医療に対する悔悟、反省は窺えない。

これらの事情を考えれば、慰謝料は金二〇〇〇万円を下らない。

(四) 弁護士費用

金一二〇〇万円

損害額の一割が相当である。

(五) 合計

金一億二九九七万〇九二四円

よって、原告は、被告事業団に対し、債務不履行ないし使用者責任に基づく損害賠償請求として、被告乙山に対し、不法行為に基づく損害賠償請求として、各自金一億二九九七万〇九二四円及び内金一億一七九七万〇九二四円に対する訴状送達の日の翌日である平成六年一月一三日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1及び2の事実はいずれも認める。

2  同3の事実中、原告がウェルニッケ脳症を発症したことは認めるが、ビタミンB1欠乏によってウェルニッケ脳症が発症するか否かには遺伝的素因が影響している可能性もあり、本症の発生原因が何かについては科学的にも未だ解明されていないところがある。

3(一)  同4(一)について

(1) (1)の事実は明らかに争わない。

(2) (2)の事実は否定ないし争う。

(3) (3)のうち、被告医師らが原告に施行した糖質輸液又は高カロリー輸液の内容は認め、その余は否認ないし争う。

(4)イ 成年男子におけるビタミンB1の一日必要摂取量は0.8ミリグラムであり、食事を摂取している限り、敢えてビタミンB1を投与する必要はない。原告は、平成四年七月二四日から同月二六日まで及び同月八月七日以降、粥を与えられており、平均的にみてビタミンB1の最低必要量は経口摂取していると考えられ、ある程度は体内に貯蓄されていると考えられるから、敢えてビタミンB1を投与すべき状態にはなかった。

ロ 本件以前の平成二年九月に医薬品副作用情報では、高カロリー輸液時に致死的アシドーシスを起こす例があり、術後患者や高齢者、また重症感染症、腎機能障害、肝機能障害などの合併症を起こしている患者、ビタミンB1を投与されていない患者などアシドーシスを発現しやすい状態にある患者には特に注意が必要であり、異常があれば直ちに投与を中止し、適切な処置を行う必要があると指摘するのみであり、アシドーシスとビタミンB1の関係には触れられていない。

平成五年一一月発行の医薬品副作用情報や同年一二月発行の雑誌「外科と代謝・栄養」に掲載された同年五月二〇日付けの投稿論文で初めて、高カロリー輸液により発症するアシドーシスは乳酸アシドーシスであり、その発症にビタミンB1が関与することが明らかにされたにすぎず、ビタミンB1を添加しない高カロリー輸液とウェルニッケ脳症の関係を指摘した医薬品副作用情報は今日に至っても出されていない。

また、ウェルニッケ脳症自体、アルコール依存症の患者や妊娠悪阻の産婦以外には希にしか見られない病気である。

したがって、原病がアルコール依存症や妊娠悪阻以外である場合に、原告が主張するようなビタミンB1を添加しない高カロリー輸液とウェルニッケ脳症の関係についての医学的知見が、本件当時に確立されていたとはいえないから、ウェルニッケ脳症の発症を予見せず、高カロリー輸液にビタミンB1を添加しないとの治療方針を選択したことについて、被告医師らに研さん義務及び調査義務違反はない。

(二)  同4(二)のうち、平成四年八月一〇日以降の原告の症状については認め、その余は否認もしくは争う。

前記のとおり、本件当時は高カロリー輸液と致死的アシドーシスの関係が指摘され警戒されていたから、代謝性アシドーシスを示唆する症状の出現には注意を払う義務があったということができるが、被告医師らもアシドーシスの発現を示唆する症状の出現には注意を払っていたし、事実原告はアシドーシスを発現しなかった。

回顧的に見れば、原告には平成四年八月一〇日ころからウェルニッケ脳症の典型的症状が現われていたということができるものの、原告に現われた眼球運動障害は進行性ではなく、ほぼ一週間で自覚的にも他覚的にも改善されており、意識障害についても急速には進行せず、周囲に対する無関心、自発語が少ない、問いに応答しない等のウェルニッケ脳症に典型的な意識障害が原告には全く見られなかったし、原告はウェルニッケ脳症の発症例が多いアルコール依存症患者や悪阻の妊婦のいずれでもなかったから、原告にビタミンB1欠乏が生じていることを同月一〇日当時に疑うことは不可能であった。

4  同5の事実は否認する。

5  同6(一)ないし(三)の主張は争う。

6  同7(一)ないし(五)の事実は不知。原告の就労可能年数及び平均余命年数については、原告の原病が胃の悪性リンパ腫であり、悪性腫瘍としては比較的予後の良い疾患であるとしても、右疾患の手術的治療後の平均五年生存率は六四から八二パーセント、ステージ1の症例での一〇年生存率は七六パーセント、絶対的治癒切除がなされた症例でも一〇年生存率は八一パーセントであり、再発すればウェルニッケ脳症に関わらず就労は不可能となり、平均余命を達成する確率はその時点で健康であった人よりも低いことを考慮すべきである。仮に原告に再発がなく平均余命を全うすることができれば、原告の原病治療における被告医師らの貢献度が考慮されるべきである。

三  抗弁―被告医師らの過失の評価障害事実(請求原因4に対して)

厚生省は、平成四年四月、社会保険・老人保険診療報酬点数表を改正して、給食料を算定している患者に対してビタミン剤(ビタミンB群製剤及びビタミンC製剤に限る。)の注射を行った場合の当該ビタミン剤については、別に厚生大臣が定める場合を除き算定しないと定めた(以下「平成四年通達」という。)。

厚生省は実際の臨床の場での患者の食事摂取能力に応じた食事の切り替えや実際の摂取量などとは無関係に、ただ給食料を算定しているか否かで査定するから、このような査定を避けるためには、その都度レセプトに患者の症状を詳記し、当該ビタミン剤の投与が必要かつ有効と判断した趣旨を具体的に書かねばならないばかりでなく、平成四年通達の文章も「薬事法の承認内容に従って投与された場合に限る」や「健康保険法第四三条の一七第一項に規定する入院時食事療養費に係わる食事療法を受けている患者」など、難解な文言が並ぶものであり、診療に忙殺される医師に医療以外の知識とエネルギーを要求するものである。

したがって、臨床医学の現場では、平成四年通達は、厚生省によるビタミン剤使用の事実上の制限に等しく、被告医師らがビタミンB1を添加しない高カロリー輸液を施行したことは不可抗力であったというべきである。

四  抗弁に対する認否

抗弁事実は否認する。

平成四年通達は、給食料を算定している患者、すなわち栄養を経口摂取している患者に関する規定であり、給食料を算定していない患者、すなわち禁食事で一切の栄養補給を高カロリー輸液により補っている患者に対するビタミン剤の投与は何ら制限していない。したがって、本件では、平成四年七月一五日から二二日までの八日間と同月二七日から八月五日までの一〇日間については、禁食事で高カロリー輸液を行っており、これにビタミンB1を含むビタミン剤を投与することは診療報酬においても査定の対象外である。

また、平成四年通達では、給食料を算定している患者に対しても、例外的に厚生大臣が定める場合に該当すれば、ビタミン剤の使用について診療報酬に算定することが可能である。そして厚生大臣が定める場合には、手術後の患者に対し流動食や粥(一分粥から全粥)が出されている場合であっても、患者が妊産婦、乳幼児等(手術後の患者を含む。)であり、診察及び検査の結果から食事によるビタミンの摂取が不十分であると診断された場合が含まれる。したがって、本件では平成四年七月二三日から二六日まで及び八月六日から一七日までの間、流動食、三分粥または五分粥と併行して施行された輸液にビタミンB1を含むビタミン剤を投与することも、診療報酬における査定の対象外である。

さらに、被告医師らは、カルテに「ビタミン欠乏症(ウェルニッケ脳症)の予防のために必要と認め投与」と一言書くだけで、本件においてビタミン剤を使用することが診療報酬算定上でも可能であった。

このように平成四年通達の内容は何ら難解でもなく、これによってビタミン剤の使用が不必要に制限されたわけでもない。そもそも医師には最善の医療を行うべき注意義務があり、治療、栄養管理上必要であれば右通達の内容を正確に把握することに努める義務があるにもかかわらず、被告医師らは右義務の履行を怠ったにすぎない。

理由

一  請求原因1(当事者)及び同2(被告医師らによる診療行為)の各事実並びに同3の事実中、原告がウェルニッケ脳症を発症したことは、いずれも当事者間に争いがない。

二  請求原因4及び抗弁(被告医師らの義務違反又は過失の有無)について

1  被告病院における治療経過及び原告の症状

前記当事者間に争いのない事実と証拠(甲六ないし九、一二ないし一四、一六ないし二一、二三、二四、三二、七七、乙一二、証人沖田直(以下「証人沖田」という。)の証言、被告乙山本人尋問の結果)によれば、被告病院における治療経過及び原告の症状は、以下のとおりであったことが認められる。

(一)  原告は、平成四年四月初旬ころより胃の痛みを訴え、同年六月一二日に大宮内科から処方された内服薬を服用しても症状が軽減せず、同月一九日に同病院で胃の透視検査を受けたところ影が発見されたため、被告病院を紹介され、同月二二日に被告病院を受診した。

同日、被告病院における胃の内視鏡検査により、胃に大きな潰瘍が発見され、被告医師らの勧めにより同月二九日、原告は被告病院の内科に入院した。入院後の検査により胃の部分に癌が発見され、被告乙山を主治医として胃の摘出手術を行うべく、各種の術前検査が行われ、同年七月七日、原告は手術目的で被告病院の外科に転科した。

(二)  同月一四日、本件手術が施行された。開腹の結果、通常の胃癌ではなく悪性リンパ腫によるものであったため、胃及び脾臓の全部が摘出された。

被告医師らは、本件手術の前日以降、経口摂取に代えて又はそれと併行して、原告に各種ビタミンを一切含まない高カロリー輸液又は糖質輸液(厳密には、高カロリー輸液とは投与カロリーが消費エネルギーの六〇パーセント以上の場合をいい、一日につき体重一キログラム当たり約三五キロカロリーを投与する場合がこれに相当する(乙九の七)が、以下では便宜上、原告に施行された輸液を総称して「高カロリー輸液」という。)を施行した。

本件手術後、同月二〇日から飲水が許可され、同月二三日の昼から流動食が開始され、翌二四日には三分粥、翌二五日からは五分粥と進んだが、同月二二日以降、原告が腹部痛を訴えて嘔吐や下痢を繰り返し、同月二七日のレントゲン検査で腸閉塞が疑われたため、同日昼から再び禁飲食とされた。

同年八月三日から飲水が、同月六日の昼から流動食が再開され、翌七日の昼から三分粥、同月九日の昼から五分粥、同月一八日から全粥と進み、同月一九日には高カロリー輸液用カテーテルが抜去されたものの、嘔吐は同年七月二七日から引き続きほぼ毎日のように続いてた。

(三)  原告は、同年八月一〇目ころより、約五〇センチメートル以上離れると視点が合わず吐き気がするなどとして複視を訴え初めたため、被告医師らは同月一一日、被告病院の眼科に原告の診断を依頼した。眼科では注視眼振及び近視と診断され、耳鼻科的疾患及び脳幹部病変の可能性が指摘された。

そこで、被告医師らは同月一二日、被告病院の耳鼻科に原告の診断を依頼した。耳鼻科でも注視方向性眼振が認められ、中枢性疾患、脳幹部障害の可能性が指摘されて、内科における脳幹部の精査を勧められた。

そこで、被告医師らは同月一四日、被告病院の内科に原告の診断を依頼した。内科でのCT撮影では小脳、脳幹部に明らかな病変は認められなかったものの、動眼神経障害を否定できないとして、同月一七日にMRIが施行され、外転神経麻痺、中脳障害、胃の悪性リンパ腫の脳転移及び脳梗塞が疑われた

(四)  原告は、同月一八日ころから物忘れが激しく、夢と現実が混ざってよく分からないなどと訴えるようになり、同月一九日には時間の感覚や前夜の記憶がないなど意識障害が現われた。

同月二〇日、原告の外転神経麻痺に改善が見られ、物忘れ等の症状は睡眠導入剤であるハルシオンの副作用である可能性が大きいと考えられた。

ところが、原告は、同月二一日、意識に変化を生じ、同日午後五時一五分ころ、突然錯乱状態を来したため、被告医師らは同日、再び被告病院の内科に原告の診断を依頼したところ、神経内科専門の医師による診察を勧められた。

そこで被告医師らは同月二二日、財団法人広南会広南病院の神経内科医である沖田直に原告の診断を依頼したところ、悪性リンパ腫に由来する脳底髄膜炎の可能性が指摘され、精密検査のため大学病院への転院を勧められた。

原告は、同月二五日、大学病院の脳神経内科に転院した。

(五)  なお、被告病院入院期間中(同年七月一三日から同年八月二四日まで)の原告の経口摂取状況と症状の概略及び高カロリー輸液の処方内容については、別紙「経過一覧表」記載のとおりであり、原告は、同年七月一五日から同月二二日まで、同月二七日から同年八月五日まで、禁食事で高カロリー輸液を施行された。

2  大学病院への転院後の経過

前記当事者間に争いのない事実と証拠(甲七五、七八の一ないし四、一三三、一四三、乙一二、一七、鑑定の結果)によれば、原告の大学病院への転院後の経過は以下のとおりであったことが認められる。

(一)  平成四年八月二五日、原告は、大学病院の脳神経内科に入院した。

入院時の所見で、原告には軽度の意識障害、眼球運動障害、眼振、躯幹失調、しゃっくり、網膜の小出血斑等の症状が認められたことから、大学病院の医師らは、まず胃の悪性リンパ腫に由来する癌性髄膜炎を疑ったが、髄液に異常が認められなかったことから、次にビタミンB1欠乏を疑った。

(二)  そこで同月二六日より、原告にビタメジンの投与を開始したところ、意識が改善し、数日して眼球運動、眼振及び躯幹失調の改善が認められた。意識の改善と共に著明な逆行性及び前行性の記憶障害が明らかとなり、被告病院で同年八月一七日に施行されたMRIで第三脳室に接する両側の視床にT2WI上高信号が認められ、中脳水道周囲にも高信号化が観察されていることに照らして、ビタミンB1欠乏によるウェルニッケ脳症が疑われた。

同年九月八日、ビタメジン投与前の原告の血中ビタミン濃度についての検査結果が明らかになり、ビタミンB1について一ミリリットル当たりの基準値が26.4から67.0ナノグラムであるのに対し、四ナノグラムしかなかったことが判明した。これを承けて、大学病院の医師らは原告の症状についてウェルニッケ脳症の診断した。

(三)  原告は、同年一〇月九日、大学病院の第二内科に転科となり、平成五年一月二七日に大学病院を退院し、その後同病院の内科、脳神経内科、神経精神科において通院治療を継続している。

原告の症状のうち意識障害をはじめとするいくつかについては、大学病院におけるビタミンB1の投与により改善したものの、治療開始から四年六月が経過した平成九年三月一七日の時点でも、新たな記憶の蓄積ができない近時記憶障害、右目における上方向への眼振を伴った垂直方向での眼球運動障害、方向転換や直線上を真っ直ぐに歩けないなどの失調性歩行、下肢のしびれを主とする末梢神経障害が残っており、これらの障害についての完全な回復を期待することは困難な状況にある。

3  前記1及び2に認定した事実によれば、原告に発症したウェルニッケ脳症の原因はビタミンB1の欠乏であったことが認められる。

なお、被告らは、ウェルニッケ脳症の発症について、ビタミンB1欠乏以外に遺伝的因子が関与していると主張し、証拠(乙二六、二七)にはこれに沿う見解が示されているが、本件において原告のウェルニッケ脳症の発症がビタミンB1欠乏以外の因子の関与によるものであることを窺わせる事情は認められず、被告らの右主張は採用できない。

4  請求原因4(一)(ウェルニッケ脳症を予見し、その発症を防止すべき義務違反)について

(一)(1)  当事者が明らかに争わないから自白したものとみなされる請求原因4(一)(1)の事実と証拠(甲四の三、三一、四二、四三、八一、八五、八六、九一、九六、一二二ないし一二七、一三六、一三七、証人遠藤昌夫(以下「証人遠藤」という。)の証言、被告乙山本人尋問の結果、鑑定の結果)によれば、完全に調整された高カロリー輸液は販売されておらず、必要な栄養素を調整して使用しなければならないこと、なかでも各種ビタミンは糖、アミノ酸、脂質の代謝を円滑に行わせるための補酵素としてそれぞれ独自の重要な役割を果しており、しかもその大部分は生体内で合成されないから、高カロリー輸液による栄養管理が長期にわたる場合には適正量投与しなければならず、これを怠ればそれぞれのビタミンに特有の欠乏症や過剰症を発症すること、高カロリー輸液中にビタミン剤を全く投与しないと七日程度で欠乏症を発症する可能性のあることが認められる。

とりわけビタミンB1については、前掲各証拠によれば、ブドウ糖をエネルギーに変えるために必要な補酵素であり、一日当たりの所要量は一ないし二ミリグラムであるが、高カロリー輸液施行時のような代謝促進時には所要量が増大すること、しかも過剰分が速やかに尿中に排泄される水溶性ビタミンであり、成人における体内貯蔵量は三〇ミリグラム程度に過ぎないこと、したがって、ビタミンB1を添加しないで高カロリー輸液を施行することは、高カロリー輸液中のブドウ糖についてエネルギー源としての価値を失わせるばかりか、体内に貯蓄されたビタミンB1の消費を促進させ、早期にその枯渇を来すことが認められる。

そして、証拠(甲四の一ないし五、三〇、三一、三八、四二、四四、八三、八四、一一二、一一四、一一五ないし一二〇、一二二、一二七、一二八、一三六、一三七、乙一、証人遠藤の証言、被告乙山本人尋問の結果)によれば、ビタミンB1欠乏症の典型的疾患は、脚気、アシドーシス及びウェルニッケ脳症であり、いずれもビタミンB1の摂取によって予防できることが認められる。

したがって、ビタミンB1を投与せずに高カロリー輸液を施行すれば、ビタミン欠乏症の典型的疾患であるウェルニッケ脳症を発症させる危険があり、これを防止するためにはビタミンB1の摂取、投与が必要である。

(2) 前記(1)の認定に供した証拠中の医学雑誌には、医学生向けの教科書的なものや医師や看護婦向けのマニュアル的なもの及び医者に広く知られており購読者の多いものも少なからず含まれており、いずれの医学雑誌も平成四年六月以前に発行されたものであって、既に臨床医学的に確立された知識として右に認定した各事実を紹介しているし、現に被告乙山も本件当時、右に認定した各事実についての知識を有していたことを明言している。

(3) 前記(1)の認定事実に前記(2)の事実を照らしてみれば、ビタミンB1を投与せずに高カロリー輸液を施行すれば、ビタミンB1欠乏症を発症させる危険があること、ウェルニッケ脳症はビタミンB1欠乏症の典型的疾患の一つであり、ビタミンB1の摂取、投与により予防できることは、平成四年六月当時において、被告医師らにその獲得を期待することが相当な臨床医学上の知見であったということができる。

したがって、被告医師らには右知見を有することを前提として、栄養を経口摂取できない患者に対し、ビタミンB1を投与せずに高カロリー輸液を行えば、ビタミンB1欠乏症を発症させる危険があることを予見すべき注意義務が認められ、右義務を尽くしていれば、ビタミン剤を一切投与しないで高カロリー輸液を施行した場合にはビタミンB1欠乏によりウェルニッケ脳症が発症する危険があることを容易に予見し得たはずである。

前記1に認定した治療経過と原告の症状に照らすと、本件手術直後の原告に対し高カロリー輸液を行えばビタミンB1が欠乏する状態に在ったのであるから、このような原告に対し、高カロリー輸液を行うに当たって、ウェルニッケ脳症の発症を予見することなく高カロリー輸液中にビタミンB1を投与しなかった被告医師らには、右注意義務違反が認められる。

(二)(1)  この点、被告らは、原告には平成四年七月二四日から同月二六日まで及び同年八月七日以降、高カロリー輸液と併行して粥等が与えられており、平均的に見てビタミンB1の最低必要量は経口摂取していると考えられ、ある程度は体内に貯蓄されていることも考えると、本件について高カロリー輸液中にビタミンB1を添加することが必要な状態にはなかったと主張し、被告乙山の供述中にはこれに沿うような部分がある。

(2) しかし、前記1で認定した被告病院における治療経過及び原告の症状に照らしてみれば、本件手術により胃の全部が摘出されたことに加えて、経口摂取が行われていたとはいえ食事の残量は二分の一から三分の二と多く、同年八月一三日までは毎日のように嘔吐や下痢を続けていたのであるから、手術後の経口摂取によるビタミンB1の摂取量は期待できず、胃の悪性リンパ腫という原告の原病からして、本件手術以前の食事が十分に消化、吸収されていたとも考え難く、必要な栄養素の体内貯蓄量もあてにできず、ビタミンB1を投与する必要性があったと認められる。被告乙山も同年七月二二日までの高カロリー輸液中のブドウ糖の代謝に体内のビタミンB1が費消されたこと、また、原告の原病と術後の諸症状からみて、体内のビタミンB1の消耗は通常より激しいであろうことは十分に考えられたと供述している。

(3) してみれば、原告について高カロリー輸液中にビタミンB1を投与する必要がなかった旨の前記認定に反する被告らの主張には根拠がなく、採用できない。

(三)(1)  なお、被告らは、平成四年六月当時、高カロリー輸液の合併症としてアシドーシスが発症する危険があるとの医学的知見は有していたものの、それがビタミンB1欠乏によるものであること及びビタミンB1を添加しない高カロリー輸液によってウェルニッケ脳症が発症することまで、医学的知見として確立されていたわけではないと主張し、乙五、八、二一、二三ないし二五、証人遠藤及び被告乙山の供述並びに鑑定の結果中にはこれに沿う部分がある。

(2) しかし、被告らの主張は以下のとおり、いずれも採用できない。

イ 被告らは、平成四年六月当時には、医薬品の副作用に関する情報等において、高カロリー輸液により発症するアシドーシスの原因がビタミンB1欠乏にある旨の報告はなされていなかったから、ビタミンB1を一切添加しない高カロリー輸液の施行によってビタミンB1欠乏症が発症することは予見しえなかったと主張する。

ロ ところで、証拠(甲二八、被告乙山本人尋問の結果)によれば、医薬品の副作用に関する情報は、「緊急安全性情報」、「医薬品副作用情報」等として医療機関に流されるところ、前者は、より早く医療の現場に公開する必要性の高いものについて製薬企業が直接、医療関係者に流す情報であり、これを受けた者は四週間以内に関係者に配布して周知徹底を図らなければならないとされているもの、後者は厚生省が二か月に一度、その時々までに厚生省に報告された副作用の中から重要な例を報告するものであること、被告病院も被告医師らに対して右の各情報の周知徹底を図っていたことが認められる。

ハ 高カロリー輸液については、平成二年九月及び平成三年一一月の各医療品副作用情報(甲二五、乙九の一・ニ)や平成三年一〇月の緊急安全性情報(甲五)で、甲カロリー輸液施行中に重篤なアシドーシスが発生する例のあることが報告され、術後患者や高齢者、また重症感染症、腎機能障害、肝機能障害などの合併症を起こしている患者、またビタミンB1を投与されていない患者など、アシドーシスを発現しやすい状態にある患者にはとくに注意し、アシドーシスの発現やその兆候が認められた場合は、直ちに高カロリー輸液の投与を中止して適切な処置をとるように指示していることが認められる。

その後、平成五年一一月の医薬品副作用情報(乙九の三)では、高カロリー輸液の対象となる重症の患者は、輸液を行わなくともアシドーシスになる可能性があるが、かかる患者にビタミンB1が補給されない状態で高カロリー輸液が行われると乳酸アシドーシスを発症することが報告され、アシドーシスを起こした場合には直ちに輸液を中止、低酸素状態の改善、重炭酸ナトリウムの投与などによりアシドーシスの治療に努め、無効の場合には一〇〇ないし四〇〇ミリグラムのビタミンB1の投与を行うようにとの指示が記載された。

さらに、平成九年六月の緊急安全性情報(甲一三五)では、ビタミンB1を併用せずに高カロリー輸液を施行するとビタミンB1の欠乏による重篤なアシドーシスが発現することがあるとして、高カロリー輸液療法施行中は一日三ミリグラム以上を目安とする必要量のビタミンB1を投与し、重篤なアシドーシスが起こった場合には直ちにビタミンB1の欠乏を考慮して、一〇〇ないし四〇〇ミリグラムのビタミンB1を急速静脈内投与するようにとの指示が追加されるに至っている。

二  これら一連の副作用情報とその解説等(甲二九、乙五、九の四・五)に前記(一)で認定した事実を照らしてみれば、平成四年六月には、ビタミン剤を投与せずに高カロリー輸液を施行すればビタミンB1欠乏症を発症する危険があり、アシドーシスもビタミB1欠乏に起因する症状の一つであることが確立した臨床医学上の知見となっていたのであるから、仮に、当時の医薬品の副作用に関する情報等で、高カロリー輸液によって発症するアシドーシスの原因がビタミンB1欠乏にある旨の報告がなされていなかったとしても、そのことをもって直ちに被告医師らの注意義務が否定ないし軽減されるものではない。

そして、高カロリー輸液施行中のアシドーシスの発生機序までは明らかにされていないものの、平成三年一一月の各医薬品副作用情報(甲二五、乙九の二)や平成三年一〇月の緊急安全性情報(甲五)においても、高カロリー輸液施行中にアシドーシスを発症した症例中にビタミンB1が投与されていない患者のあったことが報告されており、高カロリー輸液に添加すべきビタミンB1を投与しないことに対する注意が換起されている。

ホ してみれば、この点に関する被告らの主張はいずれにせよ採用できない。

(四)(1) さらに被告らは、ウェルニッケ脳症をアルコール依存症の患者や妊娠悪阻の産婦以外でみること自体まれであり、右以外の患者に対する高カロリー輸液の施行によりウェルニッケ脳症が発症することについての医学的知見は確立していなかったと主張し、証人沖田及び被告乙山の供述中にはこれに沿う部分がある。

(2) しかし、証拠(証人遠藤の証言、被告乙山本人尋問の結果、鑑定の結果)によれば、医師の専門化が進んでいる現代において、高カロリー輸液について、その成分及び作用機序などの基本的な仕組すべてに精通しているのは製薬会社とともにその開発に携わった一部の外科医のみであり、それ以外の外科医はいわばブラックボックスとして右の専門家が作成したマニュアルにしたがって使用しているにすぎないというのである。してみれば、高カロリー輸液をいわばブラックボックスとして使用しながら、マニュアルに反する使用を行おうとする者は、事前に高カロリー輸液の成分及び作用機序はもとより、合併症や副作用の有無などについて可能な限りの調査を尽くすべき義務があるというべきである。

ロ そして、証拠(甲八六、八八、八九、九六、一二二、一二三、証人遠藤の証言、被告乙山本人尋問の結果、鑑定の結果)によれば、高カロリー輸液のどのマニュアルも輸液組成としてビタミン剤の添加を要求しており、ビタミン剤を添加しなくても良いとするマニュアルは平成四年六月当時もそれ以降も存在しないこと、被告医師らも平成四年三月までは高カロリー輸液にビタミン剤を投与することを必須としていたことが認められる。

してみれば、被告医師らは、マニュアルに基づき高カロリー輸液中にビタミン剤を添加していたこれまでの方針を転換して、一切のビタミン剤を添加しないとのマニュアルに反する使用方法を選択するにあたっては、事前に高カロリー輸液における各種ビタミンの作用機序を理解し、各種ビタミンが投与されないことによる弊害について可能なかぎりの調査を尽くすべき義務を負っているというべきである。

そして、証拠(甲四の四ないし七、三八、四二、五二、八三、八四、九〇、九一、一〇一、一〇七、一二二、一二六ないし一二九、一三二、乙二、証人沖田及び同遠藤の証言、鑑定の結果)によれば、高カロリー輸液の世界的普及とともに、昭和六〇年ころから、アルコール依存症や妊娠悪阻に限らず、高カロリー輸液中のビタミンB1欠乏に起因すると考えられるビタミンB1欠乏症の発症例が国内外で報告されており、ウェルニッケ脳症についても一九七五年(昭和五〇年)から症例が報告されていることが認められるから、被告医師らにビタミン剤を一切投与しないで高カロリー輸液を施行すればビタミンB1欠乏症の一つであるウェルニッケ脳症が発症する危険があることを予見することを要求したとしても決して不可能を強いるものではないというべきである。

ハ したがって、この点についての被告らの主張も採用の限りではない。

(五) よって請求原因4は理由がある。

5 抗弁について

(一) 被告らは、平成四年通達により、ビタミン剤の使用は事実上制限されたに等しく、原告が入院した本件平成四年六月当時、被告医師らが高カロリー輸液にビタミンB1を添加しなかったことは不可抗力であったと主張し、乙八、二一、二四、二五、証人遠藤及び被告乙山の供述並びに鑑定の結果中にはこれに沿う部分がある。

(二) しかし、厚生省による社会保険・老人保健診療報酬点数表の規定は、健康保険医療の対象となる範囲を定めるにすぎず、治療方法に関する医師の専門的判断を拘束するものではない。

特定の治療方法を健康保険の対象から外すことによって、医師が選択できる治療方法が事実上制限されることのあることは否定できないにしても、このことが直ちに医師の患者に対する法律上の注意義務を軽減し、または免除する根拠となるわけではない。

本件事故の発生を承けて平成四年末ころから、高カロリー輸液へのビタミンB1の添加を再開したとの被告乙山本人尋問の結果、高カロリー輸液中にビタミンを添加することの必要性を説き、平成四年通達以降も診療報酬の点で査定の対象になるか否かにかかわらず、ビタミンを投与していた医師は証人自身を含めて存在したとの証人遠藤の証言に照らしても、平成四年通達が高カロリー輸液中にビタミンを添加すること自体を否定するものでないことは明らかである。

(三) 仮に、平成四年通達によって高カロリー輸液中のビタミン剤の使用が制限される場合があったとしても、以下のとおり本件はかかる場合に当たらない。

(1) 証拠(甲一〇九)によれば、平成四年通達は、要旨次のような内容のものと認められる。

すなわち、同通達は、給食料を査定している患者に対して、ビタミン剤(ビタミンB群製剤及びビタミンC製剤に限る。)の注射を行った場合の当該ビタミン剤については別に厚生大臣が定める場合を除き算定しないと定めた上、給食料を算定している患者でビタミン剤の薬剤料を算定できる場合としては、薬事法上の承認内容に従って投与されたときであって、次のいずれかに当たる場合としている。

a 患者の疾患又は症状の原因がビタミンの欠乏又は代謝障害であることが明らかであり、かつ、食事からではビタミンの摂取が不十分である場合、例えば、悪性貧血のビタミンB12の欠乏等、診察及び検査の結果から当該疾患又は症状が明らかな場合

b 患者が妊産婦、乳幼児等(手術後の患者を含む。)であり、診察及び検査の結果から食事からのビタミンの摂取が不十分であると診断された場合

c 患者の疾患又は症状の原因がビタミンの欠乏又は代謝障害であると推定され、かつ、食事からではビタミンの摂取が不十分である場合

d 重湯等の流動食及び軟食のうち、一分粥、三分粥又は五分粥が出されている場合

e 特別食のうち無菌食、フェニールケトン尿症食、楓糖尿症食、ヒスチジン血症食、ホモシスチン尿症食又はガラクトース血症食が出されている場合

そして、ビタミン剤に係る薬剤料が算定できるのは、医師が当該ビタミン剤の投与が有効であると判断し、適正に投与された場合に限られ、右の各要件との関連において、当該ビタミン剤の投与が必要かつ有効と判断した趣旨を具体的に診療録及びレセプトに記載しなければならないとする。

(2) この平成四年通達を前記1で認定した別紙「経過一覧表」に照らして検討すると、平成四年七月一五日から同月二二日までの八日間と同月二七日から同年八月五日までの一〇日間、原因は禁食事で高カロリー輸液を施行されており、給食料を算定している患者に該当しない。したがって、この間の高カロリー輸液中にビタミン剤を投与することは、診療報酬の点でも何ら問題がないことが認められる。

同様に、平成四年七月二三日から同月二六日まで及び八月六日から同月一七日までの間、原告には流動食、三分粥または五分粥が出されており、給食料を算定されている患者に該当する。しかし、例外的に薬剤料を算定できる場合として定められた前記(1)のaないしeのうち、d又はbの場合に当たり、被告医師らが必要であると判断すれば、高カロリー輸液中にビタミン剤を投与することは診療報酬の点でも問題がないものと認められる。

加えて、仮にレセプトへの記載が多少煩雑であるとしても、そのことが、ビタミン剤の投与を必要とする患者に対してビタミン剤を投与しないことを正当化する理由とはならない。

(四) よって、抗弁は理由がない。

6 したがって、請求原因4(二)(ウェルニッケ脳症に対する治療懈怠)について判断するまでもなく、被告医師らには、原告にビタミン剤を添加しないまま高カロリー輸液を施行すれば、ビタミンB1欠乏を来たし、ウェルニッケ脳症が発症することを予見し、これを防止すべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠った義務違反ないし過失がある。

三  請求原因5(因果関係)について

前記二3に説示したとおり、原告のウェルニッケ脳症はビタミンB1欠乏状態から生じたものであるところ、このビタミンB1欠乏状態は、被告医師らが、高カロリー輸液を行うに当たってビタミンB1を投与しなければビタミンB1欠乏症を発症させる危険があることを予見すべきであったのに、これを怠りビタミンB1を投与しなかった本件治療行為によって生じたものというべきであるから、被告医師らによる本件治療行為と原告のウェルニッケ脳症の発症との間には因果関係が認められる。

四  請求原因6(被告らの責任)について

1  債務不履行

以上によれば、被告事業団は被告医師らを通じて、ビタミンB1を含むビタミン剤を投与しないまま高カロリー輸液を施行すれば、ビタミンB1欠乏症ひいてはウェルニッケ脳症が発症することを予見して、これを回避すべく高カロリー輸液中にビタミンB1を含むビタミン剤を適正量投与すべき注意義務があったのに、これを怠ったものであり、本件診療契約について不完全履行があったものというべきであるから、被告事業団には本件治療行為について、債務不履行責任がある。

2  不法行為

また、原告のウェルニッケ脳症は、被告事業団の事業の執行として本件治療行為を行った被告乙山及びその他の被告医師らの過失によるものであるから、被告乙山には、民法七〇九条に基づく不法行為責任があり、被告事業団には被告医師らの使用者として、民法七一五条に基づく使用者責任がある。

五  請求原因7(損害)について

1  逸失利益等

金八五五七万五一七九円

(一)  前記二2(三)で認定した事実と証拠(甲七四、七五、一三八ないし一四二、証人甲野春子の証言、原告本人尋問の結果、鑑定の結果)によれば、原因は、被告病院で発症したウェルニッケ脳症による症状の改善を見ないまま平成五年一月二七日に大学病院を退院していること、同年一二月一〇日に東京都立東大和療育センターで受けた心理検査でも、ごく最近の出来事の記憶の保持に著しい障害がある逆行性健忘であると診断されていること、平成七年七月一三日に障害基礎年金の障害等級二級一七号の認定を受けていること、その後平成九年三月一七日の時点でも、直近の記憶を保持できず、したがって新たな記憶の蓄積ができないという近時記憶障害、右目における上方向への眼振を伴った垂直方向での眼球運動障害、方向転換や直線上を真っ直ぐに歩けないなど失調性歩行、下肢のしびれを主とする末梢神経障害を残しており、同年一二月八日にも大学病院神経内科の竪山真規医師から、記憶障害のため労働は困難で、家庭での日常生活もこの点で介助が必要であると診断がなされており、症状の改善はみられないことが認められる。

これらの事実によれば、遅くとも障害基礎年金の受給資格が認められた平成七年七月一三日をもって、原告の症状は固定したと見るのが相当である。なお、原告は、損害として、本訴提起以降に得られたであろう収入を一括して逸失利益の名目で主張するが、右主張は、仮に症状固定の時期が本訴提起時より後と認められた場合には、本訴提起時から症状固定時までの休業損害とそれ以降の後遺症に基づく逸失利益を請求する趣旨を含むと善解するのが相当である。

(二)  証拠(甲七五、一四二、証人甲野春子の証言)によれば、原告は昭和六〇年四月から社会福祉法人共生福祉会萩の郷第二福寿苑の職員として稼働しており、平成三年一〇月から平成四年九月までの収入は四三六万六六一四円であったこと、右法人の規定により休職期間は三年であり、そのうち給与が保障されるのは三か月であること、原告は被告病院入院後、右法人を休職していたものの、休職期間の満了により平成七年九月二七日に右法人を退職したことが認められる。

(三)  以上を前提に、まず、本訴が提起された平成五年一二月一七日から症状固定時である平成七年七月一三日までの五七四日間の休業損害を算定すると、次のとおり金六八四万八一八六円となる(円未満切捨て。以下同じ。)。

4,366,614×574/366=6,848,186

(四)  次に症状固定後の逸失利益について検討する。

(1) 前記(一)で認定した原告に現存する症状の程度に鑑みれば、遅くとも平成七年七月一三日の時点までに確定したウェルニッケ脳症の後遺症により、原告は労働能力を一〇〇パーセント喪失したということができる。

(2) 後遺症による逸失利益の算定の基礎となる収入は、原則として事故前の収入を基礎に算定すべきところ、前記(二)のとおり、平成三年一〇月から平成四年九月までの原告の収入は四三六万六六一四円であったことが認められる。右年収額は、原告の主張する賃金センサス平成二年第一巻第一表産業計・企業規模計・男子労働者・学歴計の平均年収額を下回るものの、原告が右平均賃金を得られる蓋然性があることを認めるに足りる証拠はなく、右平均年収額を逸失利益算定の基礎とすることはできない。

(3) 原告は平成七年七月一三日当時三七歳であり、就労可能年数は三〇年である。

この点、被告らは、胃悪性リンパ腫が再発する可能性を指摘して、原告の就労可能年数及び平均余命には疑問があると主張する。

しかし、弁論の全趣旨によると、本件手術後七年を経過した口頭弁論終結時において、原告に悪性リンパ腫は再発しておらず、少なくとも現時点において原告が平均余命を達成する確率がその時点で健康であった人よりも低いと認めうる事情は窺われない。したがって、被告らの主張は採用できない。

(4) 以上を前提に、新ホフマン式計算方法によって中間利息を控除すると、原告の逸失利益は次のとおり金七八七二万六九九三円となる。原告のウェルニッケ脳症は被告医師らの本件手術後の栄養管理が不適切であったことに起因しているのであるから、本件手術自体が成功したことを考慮しても、原告の逸失利益としては右の金額が相当である。

4,366,614×18.0293=78,726,993

2  付添介護費用

金一五七八万一〇四八円

前記1(一)に認定した事実によると、原告は、各々の行為自体は自ら行うことができるものの、前記認定の後遺症とりわけ記憶障害により、先ほどまで何を行い、次に何を行えば良いのかということの判断ができず、メモによって記憶を補助することもメモの存在を記憶できないために困難であり、日常生活を自立して行うことができないことが認められる。したがって、原告には随時介護が必要であり、平成五年一月二七日に大学病院を退院後、自宅で原告を介護している妻甲野春子の付添介護費用は、一日につき二五〇〇円が相当である。

本訴提起時三六歳の原告の年齢の平均余命は四一年であり、この点、悪性リンパ腫の再発可能性を指摘する被告らの主張が採用できないことは前記1(四)(3)のとおりである。

以上を前提に、原告の主張するライプニッツ式計算方法によって中間利息を控除すると、付添介護費用は、次のとおり金一五七八万一〇四八円となる。

2,500×365×17.2943=15,781,048

3  慰謝料 金二〇〇〇万円

前記認定のとおり、原告が被った後遺症は深刻であり、働き盛りの原告が仕事を失い、時間の感覚がなく、出会った人や起こった出来事について自らが体験した事実としての実感を持つことができない不安、恐怖、孤独感は図り知れず、かけがえのない妻や子供らとの思い出を自らの中に記憶として残していくことができない無念さは察するに余りある。

右のような原告の精神的損害を慰謝するには、金二〇〇〇万円が相当である。

4  弁護士費用 金一二〇〇万円

本件事案の内容、審理経過、認容額等並びに弁論の全趣旨に照らすと、被告医師らの本件治療行為と相当因果関係のある損害として賠償を求めうる弁護士費用としては、原告の主張する金一二〇〇万円を下らない。

5  小括

よって、原告の被った人身損害は、合計一億三三三五万六二二七円となり、原告の請求金額一億二九九七万〇九二四円を下らない。

六  結語

以上のとおり、原告の本訴請求はいずれも全部理由があるから認容し、訴訟費用の負担について民事訴訟法六一条、六五条一項ただし書を、仮執行の宣言について同法二五九条一項をそれぞれ適用し、仮執行免脱宣言の申立ては事案の内容に照らして不相当であるから却下することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官伊藤紘基 裁判官瀨戸口壯夫 裁判官上田賀代)

別紙経過一覧表〈省略〉

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